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岡本流生清内路通信

もう一つの父の思い出

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もう一つの父の思い出

昼前から始めた年賀状の摺りは110枚を4時間で摺り終えました。 「赤門や」さんの女将、パートナーのMさん、そして私の三人で三版四色の年賀状の一版ずつを受け持っての分業でした。

やはり初めて摺るお二人、時間も考えていた倍以上はかかりましたが、話をしながら楽しく作業ができました。摺り上がりも良い出来で満足していただけたようです。

今朝、左手の人差し指の先がスパッと切れていることに気づきました。「いつ切ったんだろう」と不思議でしたが、版を彫り始めてすぐにその答えが分かりました。何と彫刻刀の刃先ではなく、鋼の横の縁で切れていたのです。

彫る時に刀を持たない左手の指先で刃の横を押さえ動きをコントロールすることがあり、その時に切れていたのでした。 新しく用い始めた刀、こんなことは初めてです。 ビニールテープで縁をカバーし、作業を続けました。


仕事をしながら、父とのまた別の忘れられぬ出来事を思い出していました。北海道時代は両親のことをパパ、ママと呼んでいたのが、上京後しばらくして「お父様」 「お母さま」と呼ぶようになっていました。

その後私も反抗期に。母親のことはいっぱしに大人ぶって「おふくろ」と呼んだりしていましたが、何か気に食わない事が有ると「ばばあ」とか、ときには「このくそばばあ」と呼ぶこともあったのでした。恐い父親の前では決してそう呼ぶことはしなかったのですが。

そんなある日、私は父親の書斎に呼ばれたのでした。 その時の父が私に言った言葉は。

「最近、母親のことを『このくそばばあ』と呼ぶそうだけど、本当なのか」 「もしそうなら二度とその言葉を使うのはやめなさい」 「愛子(母の名前)はお前たちの母親であるけど、私の妻でもある人だ」 「その大切な愛する妻をそんな汚い言葉で呼ばれることを私は決して許さない」と・・・

この父親の言葉は、私の心の奥を揺さぶりました。以後はまた「お母さま」に戻り二度とばばあ呼ばわりはしなかったのでした。

本当に「かっこいい」父でした。書いていて、少しうるうるしてしまいました。

私が初めて「この父を超えたな」 「父は私が支えなくてはならない人だな」と感じ、父親を心から愛おしく思えるようになったのは、父親が認知症になったのちのことでした。
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コメント

1. 無題

痴呆症に反応。 朝の一時間半の散歩を日課にして 時々会い 挨拶する近所のひと 夏の初めその男性が自宅の前で ふらふら。所要で車を乗っているときに 出会い 救急車を 呼びましょうかと 聞きました。 大丈夫との事で ズボンのベルトを掴み 自宅に送りました。その人 数年前に奥さんを亡くし 一人暮らし。 奥さんは、僕と同じ歳で 僕がトレーニングしてるときに、何回か会い 僕を見ると 運動出来て良いわねと。 聞くと 肝硬変との事でした。 旦那は タバコの好きな人で 見るたびに 美味そうにすってました。 この秋 自宅前の階段 這って上がるように 僕の顔も 判らなくなり 痴呆症に。 私より 数歳上 痴呆症が 身近に感じられ ちよっと 自戒の念。奥さんが亡くなった時も 同年代 死を意識した覚えがあります。

我が 父 母に比べ ご立派なご両親 羨ましいと云うか 僕には立派すぎで 息がつまって 引き攣ってしまいそう。 笑

2. 肝硬変

よしふさん、コメントありがとう。毎朝一時間半の散歩はすごいなぁ。それだけで一万歩は行きそうですね。社交ダンスは体の切れがいのち、それだけ気も使っているんですね。

父は三十代の時に大きな手術を受けています。その時の輸血が原因で肝硬変に。医者の話ではこの肝硬変が認知症の引き金だということでした。自転車で駅前の商店街まで買い物に行き、帰り道が分からなくなり保護されたのが、父の認知症を知ったきっかけでした。

息子にとって父親は「いつかは超えていくべき存在」 立派すぎても困り物ではあります。まあ、私の場合は簡単に息子に超えられてしまいましたが。 「おやじ、もっとしっかりしてくれよ!」 もう何年も前からこう言われています。

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岡本流生
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