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岡本流生清内路通信

無縁坂?

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無縁坂?

・・・・♬ 運がいいとか悪いとか 人は時々口にするけど そういう事って確かにあると・・・
「無縁坂」だったかな。歌の文句ではないけれど、今の自分を見ててそう思います。

初めに興味を惹かれたのがほかの何物でもなく≪木版画≫であったこと。父の書斎にその本「北海道絵本」があったこと。当時の私は木版画が日本の誇る芸術であることも、木版画なら世界に出て行けることも知ってはいませんでした。


学生時代は海洋生物、特に海洋牧場の研究者になることを目指していました。大学4年で就いた農水省水産研究所の研究生。その指導教官は当時の人工漁礁の最先端の権威。その教官を尊敬できていれば・・・今私がここでこうしていることも無かったのでしょう。

研究所のあった横須賀の海辺の町。そこで家庭教師を頼まれたことが、卒業後に塾をしながら版画を作ることにつながるのです。当時の長井には別名「鬼塾」と呼ばれていた個人塾があっただけ、競争相手も少なく塾生が増え、子育てだけではなく取材や製作費にもお金を回せたことも有難いことでした。

何より、子どもたちと関わり、一緒に学び、かつ遊ぶ仕事が私の性格に合っていたことも幸いでした。


吉田遠志先生との出会いも≪奇跡的な偶然≫のつながりでした。当時私は先生の名前も作品も全く知りませんでした。勿論その父である博のことも。購読していた専門誌「季刊版画」「版画芸術」「版画館」、あるいは「芸術新潮」、そのどれにも遠志先生の作品は取り上げられていいませんでした。池田満寿夫、野田哲也といった≪芸術性≫の高い?作品ばかりが目立ち、伝統版画は≪商業的≫ ≪職人的≫とみられ批評家も取り上げることがなかったのです。

時代はまさに高度成長期。世の中の気分が≪伝統≫を振り返るよりも、常に≪新しい何か≫に価値を認めていたこともあるかと思います。

先生のスタジオで学び始めて初めて自分が習っているのは、どうやら「伝統版画」と言うものらしいと知ったのでした。 ここで先生の版画の彫りを任されたことは、技術の習得に特に役立ったのでした。また、スタジオの摺師・小松平八さんは博の時代からその腕前を買われていた名人。その方の下で摺りの教えを受けたことも幸運でした。


プロの版画家として自立できるようになったきっかけも、先生のもとに出入りしていた画商に紹介していただいたことが大きいし、海外での版画の指導のきっかけもメンドシーノアートセンターで先生の代理の講師をしたことでした。それで、曲がりなりにも英語で話すこともできるようになりました。これはその後の海外での仕事にもつながることになります。


「運がいい」と言えば、いろいろあって流れ着いたのがこの南信州の地であったことも、まさにそう思えます。正直ここに住み始めたころは「もう版画は出来なくてもいい」 「残すべき作品も幾つかは作ったし、作品も版木も百年後までだって残るように寄贈したし」と考えていました。

それが、この地で素晴らしい仲間との出会いが用意されていたなんて! その新しい友人たちの励まし、協力のおかげで、個展で版画を売ることで生活ができるようにもなったのです。捨てた気でいた自分の人生でしたが、まさかの≪第二幕≫ それも希望に満ちた新たな人生の幕が開くとは・・・

そして、県内には比登志さんも居られた・・・・


そんな思いこんな思いを胸に・・・八日からの一週間を感謝と恩に報いる気持ちと新しい縁を拾う心で頑張りたいと思います。個人的には、自分のどの作品に来場者による「人気投票」の票が集まるのかにも興味があります。


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