盆栽、私は好きです。 日本の一つの伝統美。そのフアンは世界中にいて、英語でもBONSAIで通用します。 欅やカラマツ?の寄せ植えの盆栽を見ていると、引き込まれそうにもなります。一人の旅人になってその林をどこまでも歩いていきたいと。
ドングリの盆栽も育てています。4,5年前の個展の時に会場に後援会長のFさんが飾ってくれたものを、会期が終わった後に頂いたものです。芽の先が剪定されているので高くは伸びません。十四五本の寄せ植えの中でも一番背が高くて30センチほど。
頂いた当初は爪楊枝ほどの太さだったものが、いまでは鉛筆より少し細いかなという感じまでに育ちました。そんなおチビちゃん達でも、春になれば芽吹き、夏には緑の葉を茂らせ、秋には紅葉、そして風に舞う落ち葉に。Fさんからは「ドングリはならないよ」と言われているのですが、それでも、もしかしたらと期待もしています。
創造館での「創造展」 ここにも盆栽愛好会の展示がありました。まだ≪若いもの≫が多い展示でした。それを見ていた時のことです。太い銅の線や針金で枝をぐるぐる巻きにされたものがいくつかありました。自分が美しいと思う姿、或いはその世界で理想とされる姿に仕立てるためのものであることは知っていても、見ていて痛々しさを感じてしまいました。
まず頭に浮かんだのは、中国の女性の≪纏足≫の写真を初めて見た時の痛み。そして次に思い浮かんだのは「山本鼎」。彼が「児童自由画運動」を始めたのはこのように子供たちを≪仕立てる≫ことを嫌ったからではないか?との考え。
盆栽を前に私の頭の中では、想いはさらに先まで至り、「もしかしたら、自分も意図しないうちに同じことをしているのでは」と。少しばかりキャリアが長いというだけで、人の作品にあれこれと注文を付けるのは、自由に伸びようとする芽を摘んではいないか?
その人のあるべき個性が伸びる機会を、自分の好みで「仕立て」ようとしていないか?とも。
一つのBONSAIから、想いはいろいろと飛んだのでした。