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岡本流生清内路通信

自画自解 26 講演 2

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自画自解 26 講演 2


それでは、私と川上澄生のお話を始めます。 その前に一つお断りしておきたい事があります。それは、尊敬と愛情を込めて、敢えて敬称を付けずにお話しするということです。 恩人でもあり年長もある方々に、敬称をつけない失礼は承知していますが、心の通った、気持ちに沿ったお話しをする為とご理解下さい。

私は昭和24年に北海道室蘭に生まれました。 奇しくも、澄生は、この年に疎開先の苫小牧から宇都宮に戻っています。 今、思い返せばこの「すれ違い」が、その後の私と澄生との関係を暗示しているようにも思えます。

十年ほど北海道で過ごし、父の転勤で私は東京に出てきました。 その後、小学校で転校を繰り返すと言う暮らしの中で、私は周りとなじめず、いつも、北海道に戻りたいと言う気持ちで生活をしていました。

そのような時に、私は父の書斎で、一冊の本を見つけたのでした。 「北海道絵本」 更科源蔵が書いた文章に川上澄生が版画を付けた本でした。手に取って開くなり、私はその版画、文章の素晴らしさに魅せられました。

懐かしいリンゴ園の風景や、サイロ、綿羊、竹スキーや海からの霧にかすむ低い屋並。すずらんの花、そり遊び、ポプラの並木。 何度も何度も、飽かず眺めたのでした 

直ぐに、私はその絵を真似て版画を彫るようになりました。 初めて彫ったのは、絵本の中の、「かた雪」と言う作品でした。 

彫刻刀の入っていた、箱の裏に彫ったのですが、これがその後の長い版画人生の始まりになるとは、当時中学生の私には、思いもよらぬ事でした。

その後、高校時代には、自分なりに描いた、澄生風の北海道の版画を、絵本に採用してもらえないかと、出版社に持ち込んだりもしました。

十代の終わりから二十代の初めになると、私にとっての「川上澄生」が大きく変化を始めます。それまでの私にとっての澄生は、どこまでも北海道絵本の澄生でした。 

それが、当時発刊された「季刊版画」、その後の「版画芸術」を読み始めると、今まで私が知っていたのは、澄生の膨大な仕事の、ほんのほんの一部でしかない事に気付いたからでした。

特に、私の心に強く響いたのは、澄生の詩でした。 棟方志功を版画の道に歩ませた、あの「初夏の風」、そして、率直に、青年の切ない恋心を歌った「顔」 「鬼ごと」。

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