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岡本流生清内路通信

自画自解 26 講演 4

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自画自解 26 講演 4

 
澄生の人生と私の人生は、23年ほど重なっています。 しかし、一度も、お会いする機会、お話しをする機会を持つ事は出来なかったのでした。 もう少し知恵と勇気があれば、ご自宅を訪問するなりして、お会いできたのに。 そんな事にも気付かないほど、当時の私は未熟で若かったのでしょう。

三十代から四十代にかけて、私は、パニック障害に苦しみました。人ごみの中へ出て行けない、一人ではバスにも電車にも乗れないという状態でした

その苦しみから、立ち直るきっかけを与えてくれたのも澄生でした。横浜で、川上澄生の展覧会があると聞き、どうしても見たかった私は、妻に支えられ、死ぬ思いで出かけて行きました。それを境に、私は再び、外の世界へ出る事ができるようになったのでした。

長年、版画の制作をしていると、時には行き詰まり、自信を無くし、悩む事もあります。  例えば・・・・・・・・「音楽や映画は強く人の心を動かす、 果たして、版画にもこのように人に感動を与える強い力があるのか?」と。

そんな時にも、「版画には力が有る、なぜなら、お前もその力で救われたではないか」・・・ 私の人生の原点にある「北海道絵本」との出会いの経験が、私に版画の道を歩み続ける勇気を与えてくれたのでした。

五十代の半ば、私は版画協会を退会し、名前も、これまでの本名から「流生」に改めました。「生きる」の一字を澄生から頂いたのは、いよいよ、版画の道に精進する事を自身に誓ってのことでした。

そのころ、澄生の墓前に報告するため、宇都宮を訪れた際、この鹿沼の美術館にも立ち寄りました。 ただ、折悪しく改装中で、作品を見ることはできませんでした。

澄生は、63歳で宇都宮女子高等学校を退職されました。この時の気持ちを、澄生は「これからいよいよ版画家となるなり」と記しています。 芸術家と教師、二足の草鞋を履く暮らしから解放された喜びは、私にもよく分ります。

私は今60歳。 澄生が退職した年まであと三年。 私も、それまでは、小さな塾ではありますが、教壇で教え続けるつもりです。ただ、生活の事を考えると・・・・・妻の言うように、体の続く限り働く事になるのかもしれません。

最後になりましたが、私が日ごろ強く感じている事についてお話したいと思います。それは、人の一生は、様ざまな縁によって決められ、支えられているんだなと言う事です。

青山学院中等科時代の、澄生と合田弘一との縁、その後の長谷川勝三郎との縁、澄生と北海道とを結びつけた小坂千代との縁。 そして、それにつながる私と北海道絵本との縁・・・・・

今日ここで、こうして皆さんにお話をする事ができるのも、吉田司、清子夫妻、そして長谷川勝郎さんとのご縁によるものです。  

人は昔から夜空を見上げては、明るく輝く星星をなぞり、様ざまな星座を描いてきました。今もし、私がこの夜空に、私に縁ある人々を、天空の時間と位置の座標軸の中に、星の如く並べる事ができたら・・・・・どんな形を描くのでしょう。

それは・・・私にも分りません。 ただ一つ、これだけは確かな事は、その中で一際明るく輝く二つの星は、私を版画の道へと誘った川上澄生であり、私に木版画の全てを教えてくださった、吉田遠志だと言うことです。


これで、私のお話は終わりです。ご清聴、ありがとうございます。     

         平成22年2月28日          岡本流生
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